Time is up

途中を終わらせたいんだ。

寂しさに応えてくれるひと(2)

 

寂しさに応えてくれるひと(1) - Time is up

 

その子に対しておまえが抱くようになった恋愛感情の色を帯びた興味は、おまえを戸惑わせた。おまえはわからなくなってきた。それは純粋な恋愛感情のようにも思える。しかし、果たしてそれが恋愛感情なのか、それとも、おまえの承認欲求をわかりやすい形で満たしてくれる稀有な存在として彼女を欲している感情なのか、判然としなかった。が、結局そんなことはどちらでもよかった。いずれにせよ、その子はおまえにとって特別な存在だったし、それを明確に意識するようにもなった。おまえはその子ともっと一緒にいたいと思うようになった。以前よりも頻繁にそう思うようになっていった。ただ、それだけだった。

 

差し伸べた手をひらりと躱される感覚を抱くと、その恋愛に対する勝機を逸したかのように感じて落胆する。

おまえはわからなかった。その子はおまえに対してほんとうに恋愛感情を抱いているのか、疑わしくなってきたのである。その疑念はおまえを不安の底に突き落とす。底に突き落とされ呆然と立ち尽くすおまえは、なんとかして不安の奈落から這い上がろうと奮闘する。彼女の一挙手一投足を子細に観察し、その裏にある感情を推し量ろうとした。ほんとうはどっちなんだ、と。

 

それはいざ意識してみて初めて見えてきたことなのかもしれない。

それまでは、その子の真意などわからなくてもよかった。おまえはその子から向けられる好意と関心に身を晒すだけで充分だったし、それが恋愛感情か否かを問わず、おまえにはその子の感情に応える気持ちが毛頭なかったから。その子がおまえに対して注いでくれる好意や関心の妙味を、おまえはただ気が向いたときに味わえればそれで満足だったから。おまえに向けられるその感情が、恋愛感情に根を発するものなのかということに、おまえはそもそも無関心だった。

しかし、その無関心とおまえはついに決別してしまった。おまえはその子のほんとうの気持ちを知りたいと思うようになった。その子の感情の底流には恋愛感情が流れているのかという期待はもはや、恋愛感情が流れていてほしいという願望に変わっていた。それをおまえは確かめたかった。おまえに対して抱いてくれているその子の感情の性質を同定したかったのだ。それについて思い悩みながら、おまえはようやく自覚するに至る。おまえは、その子のことが好きだった。

その子の感情の性質をいざ見極めてみたいと思うようになると、それはまさしく暗中模索。おまえはただただ悶々として、心中でひとり振り回される体たらく。彼女がおまえに対して抱いている気持ちの真意が、おまえには全く読めなかった。アルバイトのときに会う彼女はおまえに「好意」をもって接しているように見える一方で、いざ二人きりで会い、こちらの好意を伝えようかと機を窺い始めると、彼女には、こちらの好意を伝える隙が全くといっていいほどなかったのだ。はじめてそれに気がついた。縮まっていると思っていた距離感が、好意を伝えようと意識した途端にひどく遠いものに感じられる。埋めたいところが埋まらないその感覚は、「心に穴が空いている」と形容するのがいちばん近い。

おまえは彼女が向けてくれる好意や関心を、承認欲求を充足する餌として利用していた。

それまでは、餌として足りる程度の好意で満足だった。

それが餌としての効用を有している以上、彼女の真意には興味がなかった。

しかし、

それが恋愛感情としての好意であってほしいと願うようになった途端に、

それが恋愛感情であるとの確証を模索し始めた途端に、

性質の判然としないその「好意」に、おまえは満足できなくなっていた。

それが恋愛感情の色を帯びた「好意」でなければ、おまえは満足できなくなっていた。

けれども、彼女の真意はわからない。 

それがわからない限り、おまえは以前のように彼女とただ会って話すだけでは、満足できなくなっていた。なぜなら、おまえが抱いているのは恋愛感情だから。

おまえ自身の承認欲求を満たす存在ではもはや飽き足らず、おまえは彼女にそれ以上の存在としての立ち位置を求めるようになっていたから。

 

映画を観て、小洒落たダイニングバーに入り、夕食をとった。隙あらば好意を伝えようと目論んでいたおまえは、その機会を見出すことができず悶々としながら、「アルバイト同期」としてのいつも通りの態度で終始接していた。彼女も、いつも通りだった。会話の内容も二人でいるときの雰囲気も、すべて「いつも通り」だった。変わっていたのは、おまえの感情だけだった。どっちなんだ? おまえは彼女の真意を汲み取ろうと躍起になる。確証がほしかった。「心に空いた穴」が塞がらない。

けれども結局のところ、おまえはそれを汲み取れなかった。穴は空いたままで、満たされない気持ちを胸に抱えたまま、彼女と別れることとなった。大切なことをやり切れなかったという後悔だけが残り、終電の地下鉄がおまえの頭を揺らして欝々とさせる。そして、揺り動かされ欝々とした後悔が、ずっと底に沈んで忘れかけていたひとつの諦念を振るい出し、それをおまえに思い出させ、突きつける。

結局いつも、そうだ   おまえは誰かに期待することの怖さを思い出す。

 

*****

 

フィルターぎりぎりのところまで吸い落したアメリカンスピリットをコンビニのスタンド灰皿に投げ捨て、冷え切った夜道を歩き出す。冷たい頭でおまえは沈思黙考に耽る。やっと見つけた「期待」できる相手。やっと出会えた「一緒にいて楽しい」相手。けれどもおまえは、下手に自分の感情を揺さぶってしまい、その相手に「期待」以上のものを求めてしまうようになってしまったせいで、その稀有な存在に対してさえも、期待することの怖さを感じるようになってしまった。もっと会う時間を持ちたいと思う一方で、相手はおまえの期待を見えるような形で満たしてくれることはないということも、わかっている。それがわかっているから、もう、以前のようにおいそれと彼女と会うことはできなくなった。ひどくせつなかった。

 

 一月下旬の皮膚を刺すような肌寒さが、おまえを冷たく包み込む。

誰かがそばにいてほしいのに、誰といてもおまえは寂しかった。

 

 

 

寂しさに応えてくれるひと(1)

 

終電の地下鉄に揺られ自宅の最寄り駅に着くと、出口のすぐそばにあるコンビニのスタンド灰皿へと向かい、おまえは煙草に火を点ける。

ただしタール5㎎のアメリカンスピリットはいまのおまえの気分には軽すぎるかもしれない。

溜め息混じりの青白い煙が深夜の寒空を走っていく。身体の中を転げ回るやり場のない鬱憤は、煙に乗って吐き出されることはなく渦を巻いて胸の底にどっしり腰を下ろす。それはやがて云い様のない寂しさへと結晶化しておまえを懊悩へ導く。

結局いつも、そうだ    おまえは心中で、諦念に満ちた嘆きの声を呟く。

 

*****

 

ずっとおまえに好意を向けてくれていて、おまえを大切に思ってくれているひとがいた。その感情は限りなく恋愛感情に近いものを匂わせていた。けれどもおまえはその気持ちに応える勇気も興味も持ち合わせていなかった。おまえはその子のことが好きではなかった。むしろ苦手なタイプに分類していた。それは野性的めいた直感によるものだった。その子の所作から時折覗かせる、女特有の狡猾さに目を覆いたくなることがしばしばあったからだ。大学卒業を間近に控えた23年間の人生で、まだいちども女性関係を築いたことのないおまえの「野性的めいた直感」がどこまで信用に足るものかは吟味の余地があるが、特定の女性から恋愛的な好意を向けられることには満更でもなく嬉しく思っていた。

やがておまえはその好意を利用することを覚えた。おまえに好意を向けてくれて、おまえを受け止めてくれる相手。アルバイトのシフトが被ると、いつもおまえに気さくに話しかけてくれる相手。自分に興味と関心を向けてくれる相手がいることの、ありがたさ。おまえはその年齢になってようやく実感し、理解した。

おまえはその子の好意や想いに応えるつもりはなかった。「アルバイトの同期」という関係性を貫くつもりでいたし、それで満足だった。「彼女」という立ち位置でなくとも、その子とアルバイト帰りにご飯を食べに行ったり、プライベートで会って遊ぶことは、おまえ自身の承認欲求を満たすことに十分すぎるほど寄与していたからだ。おまえは自分に自信がなかった。ずっと「彼女」という存在に憧れていた。その子を「彼女」とするつもりは毛頭なかった。けれども、「あなたみたいな人が好き」という思いがその子の身体全身や言動から漂う雰囲気に乗ってこちらにそれとなく伝わってくるような心中の交流は、恋愛経験の乏しいおまえにとっては新鮮な経験であったし、男としての自信にも繋がった。渋々着いていく体裁を繕いながらも、おまえは彼女からの誘いを断ったことはなかった。またその一方で、ささやかに齎される幸福感のなかに身を置きたいという心の渇きにふと襲われることがあると、おまえは自分から彼女を誘うこともあった。

恋愛感情を相手に伝えるのに、あからさまに態度に出すひとと、出さないひとがいる。その子は前者だった。それはおまえ自身が恋愛に対して積極的でない「草食系」としてアルバイト先での地位が確立していたことも多分に影響しているのだと思う。その態度は露骨が過ぎる場面もあり、もはや冗談半分の感に見えることもあった。周りのアルバイト仲間も「またあの子なんか言ってるよ」と温かい眼差しを向けている。「草食系」のおまえに彼女が気さくに絡んでいく構図が周りには微笑ましく映っているらしい。とはいえその露骨とまでもいえる言動に滲み出ている好意にはやはり満たされるものがあったし、「草食系」としての興味なさ気な素振りを演じて彼女の言動を適度にあしらいつつも、おまえは承認欲求の充足を積み重ねていた。

 

誰かと一緒にいて楽しいってなんだろうか。

もう誰に対しても期待するのをやめようと思っていた。

誰かと会っても、結局は満たされない思いが残るから。

 

だけどその子と会うのはいつも楽しかった。その子はおまえのことが好きだから。あるときおまえは気がついた。おまえが「誰に対しても期待したくない」と心中で叫び決断した根底には、「誰かに期待することでその期待が裏切られることが怖い」という弱さがあったのだ。そしておまえが怖れている「期待が裏切られる」というのは、「相手がおまえに対してそれほど好意も関心も抱いていない」ということなのだ。それが揺るがしがたいひとつの事実として迫ってくるのが怖いのだ。だからもう、最初から「期待」したくない。現実を突きつけられるまえに、「相手は自分に対して好意も興味もそれほど持ち合わせていない」と達観視してしまえば、「期待が裏切られて」傷つくことがないから。逆にいえば「自分に好意と関心を抱いてくれている」相手となら一緒にいて楽しいと感じる。

その意味でおまえはその子となら躊躇うことなく会うことができた。「一緒にいて楽しい」と感じる前提としてのおまえに対する好意と関心の存在が確定しているのだから。

 

おまえはただ甘えたいだけだ。

ほんとうは「誰かと一緒にいて楽しめない」ということが問題なのではない。

おまえは「誰かと会うこと」の効用をはき違えている。

ただ承認に飢えているだけだ。

 

 

そして

やがておまえは、意外にもその子に恋愛感情めいた気持ちを抱くようになる。

 

 

 

誰かと会って楽しいということ

 

もうじき、私立文系大学生としての学生生活に幕を下ろそうとしている。その時節柄か、飲み会とか遊びとかに誘われる頻度がここ最近増えている実感がある。誰かに誘われれば、二つ返事で顔を出すことに決めることもあれば、「まぁもう会うこともないんだし」と半ば渋々とした心持で出向くことに決めることもある。どちらかと云えば後者の場合が多い。そしてもっと多いのは、適当な理由をつけて断ることである。

とはいえ相手からの誘いを臆面もなく断れるようになったのはここ数年のことで、それまではむしろ、誘いを断るということは極力せず、快諾して会う態度でいることに努めていた。

 

では、なぜあの頃の自分は相手からの誘いを断ることに躊躇いがあったのか。これについて、ずっと考えていた。そしてなんとなくではあるが、見えてきたことがある。

どういうことか。まず、「誘いを断ることに躊躇いを感じる」ことの根底にはいくつかの要因がある。そしてその要因として、大きく二つのものが考えられる。

まずひとつの要因としては、「相手からの誘いを断ることは失礼」という信念が自分の中にあったということである。要するに、「せっかく誘ってもらえたんだし…」という相手から与えられた機会を自分の気持ちひとつで潰してしまいたくないという思いである。そしてこのような「誘いを断る申し訳なさ」によって頭を擡げてくる後ろめたさに突き動かされ、あんまり仲良くなかったり、プライベートで会ってまで親睦を深めたいとも思わないような相手と渋々飲みに行ったり遊びに行ったりした経験は数え切れない。いまの自分ならさり気なく身を引いて断っていたような相手とも、時間を遣って会っていた。

もうひとつの要因としては、「人と会うことに楽しみを感じていたから」という背景が多分に影響している気がする。これは「人と会うことに対する期待」とも言い換えることができる。「あんまり仲良くしようとは思わないけれど、ひょっとしたら楽しいのではないか」という期待である。その期待を捨てきれないからこそ、「誰とも会わずにひとりで時間を持て余すよりは、ましかも」という比較衡量に進み、結局は会うことに決めてしまう。

 

そして以上の二つの要因は、相互に独立したものではなくて、「相手の誘いにどう応えようか」と思案する際に、しばしば符合する形で僕に迫ってくる要因である。つまり、「相手からの誘いには極力断らない」というスタンスを堅持していた頃の自分は、誘いを断ることに関して「誘ってくれた相手に申し訳ない」という気持ちが湧き上がってくる一方で、「あんまり気乗りしないけど、ひょっとしたら楽しい時間を過ごせるかも」という淡い期待が胸の底にはあったのである。そのような後ろめたさと期待が心中で渦巻き、自分でもなんだかよくわからなくなって、だんだん考えるのが煩わしくなって、仕舞いには半ば投げやりな形で「じゃあ会おうか」と決断していたのである。

ただ、このことを自分の中で吟味して考え直す機会があり、いまでは割と落ち着いて「誰かと会うこと」について向き合えている気がする。

と、ここで「自分の中で吟味して考え直す機会があり」とは云ったものの、何ら大袈裟なことではなくて、要するに上記で挙げた二つの要因を自分なりに噛み砕いて距離を置けるようになったという話である。それについては、また後日に。

 

 

 

心理療法家の言葉の技術

 

うまく言葉を選んで相手に伝えることができる人になりたいと思っている。

気の利いた言葉で、誰かを励ましたり慰めたりできる人になりたいと思っている。

自分が遣う言葉にもっと敏感になりたい。言葉は刃物。いつもどこかで、自分の言葉が誰かを傷つけてしまっている気がする。真偽はわからない。誰かを傷つけてしまう言葉は、自分が無意識のうちに放った言葉の中にあることが多いと思っているから。もっと慎重になりたい。この言葉を投げることで相手が抱くであろう感情を先読みする力が不可欠だ。いくらか想定される言葉の選択肢を吟味して、選んで、声にして、伝える。とはいえこんなことは誰だってやっていることだと思う。ただ精度が違うだけだ。そして僕は、この「言葉を吟味する」という作業の質が頗る悪いと自覚している。

自分が言い放つ言葉が相手にどのような感情を抱かせるのか。もっと突き詰めて考えないと駄目だと日々痛感している。「相手の立場に立って考える」ことに対して、もっと意識的かつ慎重に向き合う必要がある。相手の立場になって考える。まさしくその通り。その通りなのだけれど、これが非常に難しい。なぜか。どこまでいっても自分の主観を抜くことができないからである。

「相手の立場に立って考える」

「相手の気持ちを想像する」

それらはあくまで、「自分が考える相手の立場や気持ち」であって、自分の価値観が染みついた想像の域にある。相手の感情を考えるにあたって、自分の想像力や価値観がどうしても纏わりついてくる。自分の「枠」を越えることができない。限界がある。

だけどそれは当然のことで、誰でもそうなのだと思う。目の前の人と向き合い、その人の気持ちを考えながら言葉を選ぶうえで、自分の想像力の範疇を越えることはできない。だからしばしば、「自分の言葉がいまひとつ相手に響かない」とか、「もっとうまい言い方があったのかもしれない」と、後悔したり思い悩んだりする。

 だからこそ、自分の気持ちを先回りして受け止めてくれるような人や、自分の感情にうまく寄り添う言葉を掛けてくれるような人に救われると、感謝と畏敬で頭が上がらない。その人の心の深さや広さを素直に尊敬してしまうし、人としての「枠の広さ」を羨ましくも思ってしまう。

ではその「枠の広さ」のようなものは、どのように培われるのか。ある程度は人生経験の差によるものなのだと思う。どれだけ多くの人と出会い、どれだけ多くの感情と出会って悩み、向き合ってきたか。その差だと思う。

けれども、そういった人生経験が蓄積されていくのを呆然と待っているだけでは飽き足りないという思いが自分の中にはある。傲慢なことかもしれないが、それでは遅いと思うのだ。それが他人の感情と向き合う懊悩の末に、いつの間にか身につく術だとしても、僕はそれをいますぐにでも覚えて意識的に使いこなしたい。全く以て青臭い願望である。

そのためには自分の人生経験の蓄積と結晶化を待つだけではなく、並行する形で、先人たちが積み重ねてきた知識や構造化された理論に頼り、学び取っていくことが早道だと考えている。では、どこから手を広げていくのが先決か。僕は心理学だと思っている。

対人関係における言葉の遣い方に過剰なまでの神経を払い、気を遣うことが求められる心理学領域のひとつとして、カウンセリングがある*1。相手の自尊心を傷つけないように言葉を選び、相手の価値観や相手の枠組みを踏まえたうえで話し、会話を進めていく。カウンセリングで求められる基本的態度であり、いまの自分には欠けている視点である。カウンセラーや臨床心理士を志しているわけではないけれど、「言葉を選び、遣う」ことに慎重になることが求められるという点において学び取るところは少なくない。それを自分の言葉を磨く足がかりにできればいいと考えている。

もっと勉強したい。時間はいくらあっても足りないように思える。

 

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*1:とはいえ厳密にいえば、カウンセリングはクライエント(来談者または患者)に対する言葉の遣い方を研究する学問領域とはそもそも言い難く、カウンセラーの「言葉遣い」に焦点をあてた研究は、最近になってようやく日の目を見るようになってきたきらいがある。

何気ない日常の平凡な風景

 

ただただ毎日を過ごしているとわからなくて、

ふと振り返ったときにやっとわかる。

あれは楽しかった、

あれは幸せだった、

あれは青春だった、と。

 

大学4年で卒業単位がすでに揃っている身としては、もはや大学に行って講義に出る必要がない。そして卒論も書く必要がない。これは法学部生最大の特典だろう。

とはいえ、ほぼ毎日大学へ行って何かしら勉強している自分がいる。講義が上手い教授の授業に出てみたり、興味がある他学部の授業に潜ってみたり、図書館で面白そうな本を読んだり   こんなことばかり、している。

だけどほんとうは、「いろいろ勉強したい」という思いよりも、「大学という空間に身を置きたい」という思いが強い。それはある種の執着に似た感情なのかもしれない。「学生」という身分を味わい尽くしたい。だから片道50分かけて、ほぼ毎日大学へ足を運んでいるわけである。

学生時代にしかできないこととは何だろうか。

海外旅行や一人旅、それもいい。だけどほんとうに今しかできないのは、大学へ行って大教室で講義を受けることじゃないかな。僕はそう思っている。それはあまりにも日常的で、あまりにも平凡すぎるから、価値が見えにくくなってはいるけれど。

 

来週から冬休みに入る。冬休み明けには、試験がある。その試験が終われば、春休み。

 

早い。全15回ある講義も気づけばもう終わりだ。

4年間の大学生活は、振り返れば何もしていないようにも思える。

もうずいぶんまえから薄々気がついていた。学生時代が終わる寂しさと切なさに。

気がついてはいて、いつか来るその日をぼんやり覚悟はしていて、毎日を大切にしようとは思いつつも、過ごしてきた。寂しさと切なさを先取りして味わっておけば、いつか来る「その日」が投げかけるであろう哀しさに、すこし耐性がつく気がしていたから。

 

そしてついに、ここまできた。

後期の授業も終わりに近づき、来週から冬休みになる。

「ああもうすぐ、ほんとうに卒業なんだな」

「もうこうやって、授業を受けることもできなくなるんだな」

そう思った冬の昼下がり。感傷にまみれすぎている。哀しさの先取りを繰り返す。

 

だけど先取りを何度繰り返しても、耐性はつきそうにない。

そしてだんだんと、先取りのはずだった哀しみはいよいよリアリティを帯びてきて、僕の胸を締め付ける。ずっとそうだ。先取りした哀しさが、からだの中を転げまわっている。「ああ俺、こんなにも自分の大学が好きだったんだ」と、振り返ったときにわかる素直な気持ち。汲めども尽きることのない寂しさと切なさが胸に湿る。

 

9時20分から始まる一限の授業。

「つまんねえな」と感じつつもノートをとったりボーっとしたりする90分間。

大教室に淡々と響く教授の声。

いつも決まって座る席。

名前は知らないけれど、なんとなく見覚えができた顔ぶれ。

「今日休むからレジュメもらっといてほしい!」という友人からの連絡。

キャンパス内が賑やかになる昼休み。

いつも昼飯を食べていたベンチ。

いつの間にかほとんど使うことがなくなった学食。

話し声と、笑い声と。

男女5人くらいでわいわい盛り上がっている風景。

騒がしくて、楽しそうで。

すれ違えば挨拶してくれる数少ない友人。

みんながどこかへ向かって歩いている。

たくさんの学生がいるキャンパス内の風景。

 

そのすべてが、もう自分とは無縁の世界になってしまうという寂しさ。何気ない日常の平凡な風景が、ひどく愛おしい。

それを胸に刻んで大切に覚えておきたいから、

すこしでも多く大学へ足を運んで、すこしでも長くその空気に触れていたい。

 

 

 

執着を棄てた末に、なにが残るのか

 

「好きな作家は?」と訊かれることがある。いつも「夏目漱石」と答えている。

理由は大きく二つある。一つは文章の美しさである。何度読んでも味わい尽くせないその美文は、読む度に違った色合いを見せる。読むに堪える文章。飽きさせることがない。

そしてもう一つの理由は、漱石の思想である。

こちらの理由の方が自分の中では大きい。漱石の小説には、孤独や人間への不信を表現する文章が多く目につく。なかでも『こころ』は圧巻であると思っている。僕はそれを折に触れて読み返す。漱石の小説で読み返した数が最も多いのも『こころ』である。

夏目漱石の『こころ』。言わずと知れた国民的近代小説。「私はその人を常に先生と呼んでいた」という書き出しの第一文はあまりにも有名で、語り手である「私」が「先生」を回想する形で物語は進んでいく。

『こころ』は当時、朝日新聞に掲載されていた連載小説である。そして漱石は『こころ』に関して、「人間の心を探求しようとする者はまずこの作品を読め」と喝破した。自分で言ってしまえるところが流石である。まさに漱石自身の言う通りで、人間関係に関する心の内的葛藤を描いた名作である。

『こころ』のなかで好きな文章がある。「先生」の台詞だ。

 「かつてはその人の膝の前に跪いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥けたいと思うのです。私は今より一層淋しい未来の私を我慢する代わりに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己れとに充ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう」 

 

 

僕は人間関係を維持させる力が頗る弱いと自覚している。

親しくしていると思っていた相手から、いつのまにか距離を置かれていると感じることは少なくない。人との関係性が変わりやすい、気がする。だから関係性を定義する言葉を遣うことが好きではない。「友だち」ではなく「同級生」。「仲が良い」ではなく「別に普通」。誰にでも分け隔てなく接し、誰とでも仲良くなりたいと思う一方で、相手から距離を置かれることを畏れている。気がつけば「距離を縮めたい」という願望を棄てることを僕は覚えていた。覚えさせていた。

ただ最近、ふと考えることがあった。

それは、自分自身も誰かに対して距離を置くようになり、関係性を自ら変えてしまっていることがあるのではないか、ということだ。

 

 

先日の話である。

僕は彼とおよそ一年振りに再会した。彼とはアルバイト先の同期として出会った仲である。大学は違うのだけれど同い年で気の合うところも多く、かなり仲が良かった時期があった。プライベートでも彼とは二人でよく飲みに行ったり、遊びに行ったりしていた。

ただ、彼はイギリスに留学するため、一年まえにアルバイトを辞めていたのである。

その彼が先日帰国して、アルバイト先に遊びに来ていた。彼が来た日に僕はたまたまシフトに入っていたため、顔を合わせることになったわけである。

彼のことを知っている他のアルバイト仲間は彼との再会を心から喜んでいるようであった。彼はもともと陽気な性格で、よく喋りよく笑う。ムードメーカーとしても周りからの信頼は厚かったし、留学を理由にアルバイトを辞めるときも、散々別れを惜しまれていた。

そして僕も、彼がアルバイトを辞めるときにはやはり寂しさを感じていた。「もうこいつと二人で呑んだりすることは当分できないな」。そう思ったことを覚えている。

 

そんな彼との再会。

僕も周りと同じように、彼を心から歓迎することができればよかった。しかし、僕にはそれができなかった。なぜだろう。自分でも驚くほどにあっさりとしていた。もはや彼に対して、興味がなかったのである。留学でどんな経験をしてきたとか、これから新しいアルバイトはどうするのだとか、どうでもよかった。そしてこのとき気がついた。僕は対人関係に臆病である一方で、とても薄情な奴だった。

 「帰ってきたし、またご飯でも行こう」

別れ際に彼が残した言葉にさえ、なぜだか苛立ちを覚えた。

「なぜ俺が今でもおまえを好意的に感じているとおまえは信じているのか」

そう思ってしまった。

表情に苛立たしさが走る。彼に向ける顔がなかった。

 

自責の念に胸を締めつけられる。彼の期待に応えられない自分になってしまっていたことが申し訳なかった。そう。僕には対人関係を畏れる資格なんてなかったのだ。

関係性の変化に怯えたり、距離を縮めることを避けたりする背景には、「あるときを境に相手から距離を置かれ、傷ついた経験」のようなものがあったのだと思う。僕はそれまで、被害者的な立ち位置としての自分にしか目が向いていなかった。

とはいえ自分だって、誰かとの関係性を棄てる方向に働きかけてしまっていることがある。それを自覚してしまったのだ。ひどくせつなかった。

 

自分も誰かに対して距離を置いたり、「このひと何か違うな」と感じたりすることがあるということ。人間関係の持久力は、とてつもなく個人の勝手に左右されるものであり、自己中心的な論理に振り回されているということ。そうなのかもしれない。そりゃ疲れるわけだ。思い悩んでも仕方がない。自分の振舞いが原因となって破綻する関係性も勿論多いだろうけど、それと同じくらい、相手の「なんとなく」が原因で崩れる関係性も、おそらく多いのだ。そして、その相手の「なんとなく」は、たぶん自分の振舞いや接し方を変えても覆すのが難しい感情で、自分の働きかけでどうにかできる性質のものではない。それはその人の感情だから。誰かの「なんとなく」から生じる嫌悪感や不快感をこちら側で統制することはできない。いや、できるのかもしれないけれど、できないと考えておいたほうが無用な気疲れをせずにすむ。そう思っている。

その一方で、自分勝手に支配される対人関係は、自分勝手に復活したり修復されたりするものなのかもしれない。だから留学から帰国した彼とも、また会いたくなるときが僕にも来るのかもしれない。自分の気まぐれだ。ほんとうにうんざりする。

ただ、僕がいつか彼とまた会いたくなったとき、

そのときに彼が「じゃあ会おうか」と言ってくれるかはわからない。

 

次も、その次も、その次もまだ目的地じゃない

eiga.com

 

不覚にも、「若いっていいな」と思ってしまった。

僕はこの映画を二回観た。一回目は一人で。二回目は好きな女の子と。一人で映画館に行くことが趣味のひとつになっているものの、同じ映画を映画館で二回も観ることは滅多にない。ただ、女の子と出掛ける口実として「バクマン。を観に行こう」という話が挙がっただけである。だから二回観る機会があった。

とはいえ二回目であっても素直に面白く観ることができた。ストーリーがテンポ良く展開されていき、惹き込まれる。実際に「漫画を描いている」映像や音声も忠実に再現されており、ボーっとさせる瞬間がまったくない。あっという間に過ぎる120分間で、その感動は二回目であっても色褪せることはなかった。

バクマン。」は週刊少年ジャンプで連載していた人気漫画である。そのあらすじについて簡潔に触れておく。主人公・真城最高は、高校時代の同級生・高木秋人から、タッグを組んで漫画家を目指そうと誘われる。二人は「週刊少年ジャンプ」での連載を目指して日々奮闘しながらも、漫画を描くことの厳しさ、辛さ、恋愛や人間関係に悩み、云々する。大まかに言えばそういう話である。要するに、「ジャンプで漫画を描くということ」を中心のテーマに描かれた作品なのである。

ただ、映画では登場人物は極限まで削られており、舞台も高校3年から卒業までの一年間に敢えて絞ってある。そして実写化するにあたり、そのようなストーリー設定を選んだことは功を奏していたと思う。高校生の二人が漫画家を目指してがむしゃらに突き進む。その勢いの良さだけに焦点を絞ることができていたからだ。これは原作のように数多くのキャラを登場させていたり、高校卒業以降の話までストーリーに含めたりしていたらできなかったことだと思う。原作の面白さや醍醐味をうまく抽出してまとめ上げることに成功している。たったの120分間で。監督・脚本を手掛けた大根仁氏はおそらく「バクマン。」の原作を相当味読しており、そして純粋にあの漫画が好きなのだと思う。

映画では最終的に、主人公たちが描いている漫画「この世は金と知恵」が、紆余曲折ありながらもジャンプの人気漫画アンケートで1位を獲得する。が、週を追うごとに人気は下がり、連載打ち切りとなってしまう。二人は高校3年の一年間を漫画に捧げていたため、大学受験もしていない。卒業式の日に「俺たち、これからどうなるんだろうな」「とりあえず、無職だよな」と自分たちの将来を悲観する表情を見せながらも、高木が「ところでよ、面白いストーリーを思いついたんだけど」と真城に話を切り出して…。ストーリーはここで終わる。「これからも二人で漫画を描いていこうぜ!」という爽やかな余韻を残し、幕は閉じる。

僕はここで主人公の二人が羨ましくなった。

「若いっていいな」と思った。いや、「自分の可能性を信じて走り続けられるっていいな」というのが正確かもしれない。高校3年の一年間をすべて漫画に懸けた。なんとか結果を出すことができた。ただそれは長くは続かなかった。振り返ってみれば「何も残らなかった」といえるのかもしれない。だけど前を向いて、また走り出せる。まだまだ若いから。「次」があるのだ。全力でぶつかったうえでの失敗や挫折は、次の機会に活かすことができる。

自分には「次」があるのだろうか。おそらく探せばあるのだと思う。ただ、それはもう自分には必要ないとも感じている。「この悔しさを糧にして次は頑張る!」といった根性論が、自分の中にはもう以前ほどないからだ。

僕は就職活動が思うようにいかず、来年の春から働く職場にも正直満足していない。だけどその一方で、「まぁ俺ってこんなもんだよな」と自分の状況を素直に受け容れている潔さがある。大学受験のときは違った。「あんなに努力したんだから、この悔しさをばねに大学では勉強を頑張ろう」と、志望度の低い大学に進学することになった自分を奮い立たせ、悔しさの矛先を次のステージである「大学生活」へ向けていた。潔さのかけらもなかった。悔しさを背負い続けて、「いつか花開き報われる自分」を信じ続けていた。

これが「大人になる」ということのひとつなのかもしれないな。サカナクションの「新宝島」が流れるエンドロールをぼんやりと眺めながらそう思った。自分の身の丈を弁えて、黙って噛み締めること。「バクマン。」の二人は、連載が打ち切りになるも、自分たちの可能性を信じ続けている。清々しい。

そのひたむきな姿勢は、どこか懐かしさを感じさせてくれる。

羨ましくて、すこし寂しい。

 

他人に映る理想自己と、現実自己と

 

「自分に同情するのは下劣な人間のやることだ」

村上春樹の小説『ノルウェイの森』に、こんな台詞がある。僕は初めて『ノルウェイの森』を読んだときから、この台詞がずっと脳裏に焼き付いていて、折に触れて思い出している。自分で自分に同情してしまいそうになるとき、いつもこの台詞に縋りついて、自分を戒めている。

 

先週、同じゼミの女の子が教室に入って来るなり開口一番に「忘年会やろうよ!」と言い出した。4年生の後期からそのゼミに入った僕は、その女の子とはまだあまり話したことがなかった。ただ、僕はその子に対しては割と良い印象を抱いていた。ゼミのメンバーの中でいちばん快活でよく喋る一方、その場の空気や状況に合わせて気を遣い、自分の振舞いや立ち位置を器用に変えることができる子だったからだ。彼女は公務員試験に晴れて合格し、来年の春から警察官になるらしい。ゼミの議論でも積極的に発言しており、勉強に対する意欲的な姿勢からも根が真面目な人だというのは伝わってくる。誰に対しても臆せず話しかけ、いつも明るく笑っていて、「なんでそんなにいつも楽しそうなの?」と訊いてみたくなるくらい、楽しげな表情を常に浮かべている。まだ知り合って数ヶ月しか経っていないけれど、僕は彼女に対してそのような印象を抱いていた。

その子は僕を含め他のゼミのメンバーからそれなりに好かれていたと思う。周りの間でも「いいキャラ」「良い子」で通っている雰囲気があるからだ。その子の忘年会の提案には誰も異存はなかったし、そもそもせっかくの提案に水を差すような人はあのゼミにはいなかった。「和気藹々とやっていこう」という方向性をゼミのメンバーが共有して大切にしている気がする。気軽に穏便に皆で仲良くやって行こうという雰囲気がゼミ全体にある。

教室に入って来るなり「忘年会やろうよ!」と切り出したその子は、僕の右斜め前の席に着いて、隣に座っていた女の子に笑いながらこう話しかけていた。

「ていうか私、毎日忘年会やりたいなぁ!毎日毎日、忘れたいことしかないし!もう毎日が黒歴史だからさ!」

話しかけられた女の子は、笑いながら適当に相槌を打っていた。いつも通りの会話らしい。けれども僕は、彼女の言葉を聞いて「は?」と意外に思った。「友達も多くて周りから慕われているのに」とか「第一志望の警察官に採用されて将来有望そうなのに」などという思いが、瞬間的に僕の頭をかすめた。また同時に、「ああ見えて彼女もいろいろ大変なんだな」と、彼女に対する同情の念が萌してきた。そして彼女のこの発言に対してさらに思いを馳せるうちに、また別の感情が湧き上がってきた。「毎日が黒歴史」だと笑いながら自嘲してしまえる彼女の心の強さに、僕は負けた気がして、自分が情けなくなったのである。

確かにそれは、そのときの彼女の口の勢いから出てきた言葉で、深い思い入れのある言葉ではなかったかもしれない。いや、むしろ僕はそう思いたかった。その場の勢いが口走らせた出まかせの言葉だと捉えてしまいたかった。彼女の真意はわからない。ただ僕は、その言葉を快活に話す彼女の目が笑っていないのを見逃さなかった。

彼女の表現を借りれば、僕も「毎日が黒歴史」だといつも思ってしまうし、それこそ「毎日、忘れたいことしかない」。とはいえ、僕が自分で「毎日、忘れたいことしかない」と発言しても、おそらくその発言に意外性はない。というのも、そういう後ろ向きな言葉を吐くことは、僕の人物的なイメージとあまり乖離がないから。「目が死んでいる」という僕を評した言及には、悲しくも慣れすぎている。

「毎日が黒歴史」などという言葉を吐くのは、それこそ目が死んでいるような人だというバイアスが僕の中にはあった。だから、楽天的な雰囲気を身に纏っている彼女の口からそのような陰気を帯びた発言が出たことは僕にとって驚きだった。また同時に、彼女に対してある種の「人間臭さ」のような印象を得ることができ、親近感も生まれた。考えてみれば当然のことなのだけれど、傍から見ればいつも幸せそうな人でも何かしらの苦悩を心のうちに抱えている。その苦悩を、普段の表情や振舞いに出してしまうか否かの思慮分別があるかの違いにすぎない。彼女はその分別を心得ていて、僕は心得ていない。それだけのことなのだ。

彼女は、自分の辛い本心を胸の内に仕舞い込んで見せない分別を心得ていてそれを巧みに実践している。そしてそうすることで、自分の苦悩や辛い本心と距離を置くことができている。その事実だけで僕は、彼女に羨望の眼差しを向けてしまった。辛いのに笑っている人は、その辛さに自分で同情していない。そういう人はおそらく、自分の感情に対して敢えて距離を置く勇気を持っているのだと思う。

「ていうか、ゼミでLINEのグループ作ろうよ!日程決めよ!」

忘年会の計画について滔々と話を進める彼女の姿を眺めながら、ふと「自分はまだまだ子どもだな」と恥ずかしくなった。もっと強い人間になりたい。僕はいつも自分に同情しすぎている。

 

 

 

いつも決まってこの時間帯に目が覚める。起きるには早いが、もう熟睡もしていられない時間帯。カーテンから差し込む薄暗い朝日をまだ眠い眼で微かに捉え、一日の始まりを感じ取る。なんだ、今日は雨か。地面を叩きつける雨音を聴いてホッとする。僕は雨が好きだから。のんびりとした一日になりそうな予感と期待で胸が膨らむ。だけど今日を始めるには、まだ早い。起き上がることもなく、惰眠を貪る。

雨が好きだ。いや、好きというのとはまた違う気もするな。思い返してみると、雨の日はいつも気分が良い。単なる個人的な事実だ。気分が良い日の多くが雨の日だったという経験則から、「雨が好き」だと自分の趣味を帰納的に漠然と捉えているにすぎない。まあいいや。とにかく僕は、朝うっすらと目が覚めたときに雨の音が聴こえると、その日一日を気分よく過ごせそうな気がするのである。

雨が僕を落ち着かせてくれるのは、きっと僕があまり快活で活動的な人間ではないからだと思う。雨の日は時間の流れがいつもより遅い気がする。それは僕のペースに合っている。世の中がゆっくりしているのだ。雨雲に覆われた街は薄暗く閑散としていて、静かな香りが漂う。しばしば「雨の匂い」と形容される、あの匂い。外に響く雨音が、部屋の窓に面した大通りの雑音を遮り、僕にささやかな平穏を齎す。冬の訪れを仄めかす11月の肌寒さがいっそう厳しく感じられ、このままおずおずと冬を始めてしまいそうな気配が漂っている。そんな夕暮れ。雨を降らせる曇天に飾られた夕闇が、外の静寂さを彩る。傘を片手に、僕はようやく街へ出た。

およそ2ヶ月ぶりに、煙草を買った。特に理由はない。なんとなくそういう気分だったから。ただそれだけ。アルバイトまでの時間を、煙草でも吸いながら近くの公園でぼんやり過ごそうと思った。この公園は隣にあるオフィスビルと繋がっている。公園に面した二階のドアを開ければ、公園へ続く幅の広い階段の踊り場に出る。下の公園を一望できるその踊り場は小高い丘の様相を呈しており、丘の傾斜面全体が公園へと続く階段となっている。

その踊り場には「喫煙所」として、カラーコーンで喫煙範囲が区切られた空間がある。カラーコーンは申し訳程度に踊り場の片隅に設置されており、真ん中にスタンド灰皿が置かれている。人々はスタンド灰皿を囲う形で立ち竦み、目下の公園をとりとめもなく眺めながら煙を燻らせている。

公園に着いた僕は、隣のビルへと続く階段を上り喫煙所へと向かった。暗闇を灯す淡い朱色の点灯がちらちら遠目から見える。休日の夕暮れではあるが、僕と同じようにちょっと一服するために立ち寄っている人はいくらかいたようだ。

煙草を咥え、火を移す。たった2ヶ月ぶりだったけど、懐かしい気持ちがした。

「煙草なんて自傷行為の一つだよ」

煙草についてふと考えると、大学時代の友人が自らの喫煙習慣をこう語っていたのをいまでも思い出す。「喫煙は緩慢なる自殺」なんて言葉もあるくらいだ。友人は嘲笑いを浮かべながら冗談めかして話していたけれど、彼は何かに苦しんでいたのかもしれないな。いま思うと。

しんしんと降り注ぐ雨の中へ、灰色の煙を白い吐息とともに吐き出した。そこには無意識のうちにため息も混ざっていた。あ、これか。不意に、煙草を買った「なんとなく」の理由が飲み込めた気がした。たぶん、僕はため息を吐きたかったのだ。もっとも自然な方法で。ため息がため息に見えないような方法で。

煙草の先端からゆらゆらと立ち昇る煙の匂いが鼻腔をかすめる。地雨が齎す湿った香りに溶け込んで、煙たさは苦味にならない。

ため息を含んだ灰色の吐息の輪郭が、深くはっきりと暗闇を走った。

 

少年法と格闘する(2)

 

前回(少年法と格闘する(1) - Time is up)の続きです。 

 

少年法は少年に対する制裁を「軽く」している事実は確かにあるが、それは「軽く」することが「必要」だと考えられたからにすぎないのであって、「少年だから軽くする」という単純な構図では決してないということ。

・そして少年一人一人に「何が必要か」をとことん考えることを法律上担保するために、少年法は作られたということ。

・逆に、成人に適用される「刑法」には、一人一人の個別的な事情を汲み取って刑罰を考えるプロセスが予定されていないということ。

・では少年法の前提でもある「少年を成人と分けて特別扱いすること」はどのような理念に支えられ、正当化されているのか。これが最も理解されるべき問題意識であるということ。

 

おおまかに上記のことを前回の記事で書いた。

今回は「少年を成人と分けて特別に扱うこと」という問題意識について切り込んでいきたい。そして前回の記事でも書いた通り、この問題意識は「少年法が少年を守る意義がわからない」と言う人にも是非考えてみてほしい。この点を上手く噛み砕くことができれば、少年法に対する印象も自ずと変わってくると思うからである。

 

では本題。刑法とは別に少年法という法律を特別に作り、少年を成人と分けて特別扱いするのはなぜか。その理由を理解するためには、少年法が前提として考えている「少年像」を理解することが必要となる。では少年法が前提としている「少年像」とはどんな少年か。それは「人格が未成熟で、周りの環境に流されやすい人間」である。そしてその未成熟な人格は、周りの環境に影響されて形成されていくという前提に立つ。とはいえ、周りの環境によって人格が形成されるということは、人格の成熟が環境に依存するという意味で、不安定なものである。これは考えてみると恐ろしいことである。というのも、比較的健全な環境で育てば健全に成長することができ、非行とは縁のない生活となる場合がある一方で、置かれた環境によっては、非行傾向のある人格が形成されてしまうこともあり、それが実際の非行として表出する場合があるからである。

非行傾向のある人格が形成されるか否かは、置かれた環境次第。つまり、少年法が前提とする「少年像」の考え方に拠って考えると、非行少年の根本的な人格そのものの善悪については、少年法は基本的に問題としない。むしろ、その少年が「なぜ非行するに至ったのか」という少年の非行傾向を形成させた家庭環境等の環境面の問題を重視する。最初から非行傾向のある人格をもって生まれる少年はいない。少年法性善説に基づく「少年像」を掲げているとも言える。

極端に言えば、「非行の原因は、その少年が置かれてきた環境のせい」だという前提に少年法は立っている。ただ無論、全てを環境のせいにしてしまうわけではない。あくまで、非行の原因を考える際に「その少年がそれまで置かれてきた環境」を重視するウエイトが非常に高いというだけである。「環境面での問題はなかったのか。」少年法では前提としてまず、この視点から非行少年と向き合うことが求められている。

要するに、少年法は人格が未成熟な少年像をまず前提に据えている。そしてその未熟な人格は、しばしば生まれ育った環境の影響を受けて成熟していくとされる。ゆえに、非行傾向のある人格を形成してしまってもやむを得ないような環境下において生まれ育てば、その少年は非行傾向を備えてしまう。そして非行を引き起こしてしまう。少年法の前提とする少年像に基づけば、非行少年が生まれるメカニズムはこういう案配なのである。

「子どもは親を選べない。」まさにこの言葉通りで、どんな親に育てられるかというのは、子どもの人格形成上かなり重要なファクターである。僕は、平凡ではあるけれどある程度は常識的でまともな両親に育てられ、非行とは縁なく生きてきたからうまくイメージができないのだけれど、いわゆる「非行少年」と指差されてしまう子どもの多くは、その家庭環境がかなりひどい、らしい。幼少期から虐待を受けていたり、両親ともに育児に無関心であったりして、大人に対する不信感を植えつけてしまっているらしい。人間不信で他人にうまく心を開けない子どもも多い、らしい。

ここまできてようやく、少年法のやろうとしていることが漠然と見えてきたかもしれない。つまるところ、健全に子どもを育てられるとは考えがたいような、劣悪な環境下で育ってしまった子どもに、手を差し伸べてあげようとするのが少年法の狙いなのである。子どもに対して、教育的に健全な環境を提供することができなかった親に代わって、少年法が子どもの面倒を見ようとしているのである。健全な環境で生まれ育たなかった責任は、その子どもにはない。だからその責任を少年法が引き受けて、恵まれなかった子どもに健全な環境で育つ機会を改めて提供し直そうとしているのである。

では、親に代わって少年法が環境的に恵まれなかった子どもに手を差し伸べるとして、具体的にはどのようにして、健全な環境で育つ機会を提供するのか。当然出てくる疑問だと思う。ただ、この疑問は一問一答では答えられない。なぜなら少年一人一人の事情は異なり、事情に応じて必要な環境は違うからである。ここで最初に戻る。そもそも少年法とは、刑法とは異なり、その少年一人一人の個別事情を汲み取ることが予定されている法律である。「この少年に必要な健全な環境は何か。」これをとことん考えるのである。考えに考えた末に、少年院に送るか、保護観察をつけるにとどめるか、そのまま家に帰して様子を見るか、最終的な処遇結果を下すのである。

なお、よく誤解されているが、少年院は少年を懲らしめることを主たる目的とした施設ではない。あくまで矯正教育を行う更生施設である。広い意味で言ってしまえば、「育て直し」を行う施設とも言えるかもしれない。

そもそも少年法の文脈で、「刑罰」や「罰する」という言葉は出てこない*1なぜなら、そもそもの少年法の理念が、「少年が健全に育つことができる環境を、少年法が親に代わって提供する」というものだから。罰するための法律ではないのである。だから少年院も、罰することを一次的な目的としてはいない。

要するに、少年法は少年一人一人の生まれ育った環境にまずフォーカスを当てる。そしてその環境に問題があるならば、どういった環境を与えるのがふさわしいのかを考える。ここで少年一人一人の必要に応じて、個別的に処遇結果が下される。

なお、「少年法が少年を守っている」と少年法を批判する人が不満に思っている「少年は成人に比べ刑が減刑されている」ことに関しても、この文脈で一応の説明ができる。つまり、成人並みの長い刑期を少年に負わせることは、その少年がこれから健全に育っていくことを目指す上で「必要ではない」と考えられているのである。だから成人よりも減刑される。そして「ではなぜ非行を犯すような少年に対しても、教育的配慮をする必要があるのか」という非難に対しては「少年は自分が生まれ育つ環境を選べない。少なくとも20歳になるまでは、少年法が親に代わって健全な教育的環境を少年に与える責任がある」という反論を少年法は用意している。たまたま劣悪な環境で生まれ育ち、たまたま非行傾向のある人格を形成してしまった少年に対して、見捨てずに健全な環境で育つ機会を与えてあげようとするところに少年法の立法趣旨があるのである。

 

以上が少年法の「少年を成人と分けて特別扱いすること」の根底にある理念である。

ただ、世間でよく言われる少年法批判はまだまだある。

「少年に健全な教育環境を与えることが目的とはいえ、健全な環境を与えても非行を繰り返す少年はいるのではないか。」

「健全な環境を与えても、少年は更生しないのではないか。」

「人を殺したような少年に対しても、育った環境が悪かったという理由で片づけるのは遺族感情への配慮が欠けているのではないか。」

などなど。

これらの問題は非常に難しい。少年法の教科書にも載っていないし、大学の講義でも触れられなかった。ただ、僕なりに思うところはある。それについてはまたどこかで書いてみたい。

 

*1:前回の記事では便宜上、「刑罰」や「処罰」という言葉を使ってしまっていたのだが。少年院送致や保護観察処分といった少年法における最終的な法的強制措置は「処遇」といって、「刑罰」や「処罰」とは全く別の概念なのである。

少年法と格闘する(1)

 

世の中に法律はごまんとある。しかし、世間に広く知れ渡っているにもかかわらず、その根本的な存在意義を正しく理解されていない法律も数多くある。そして、そのような「正しく理解されていない」法律の一つとして、少年法が挙げられると思っている。

僕は法学部の学生で、少年法の授業は大学3年のときに受講した。ただ、大学で授業を受けて一通り勉強しても、「結局、少年法って必要なのか?」という素人的な疑問を恥ずかしながら拭うことができず、少年法を維持する現行法制度に納得できず悶々としていた。

しかしそれからも少年法については勉強する機会があり、少年犯罪がメディアに取り上げられ話題となる度に少年法については考えさせられていた。それに何より、「法学部で勉強しているのに少年法の存在意義を正しく理解できないのは恥ずかしい」という一法学部生としての青臭いプライドとも相俟って、自分なりに少年法とは格闘してきた。そして最近になってようやく、僕は少年法を理解できてきた気がするのである。今回は「そもそも少年法とはなんぞや」という切り口で、僕の現時点での理解の到達点から少年法について語りつつも、少年法のわかりにくさに一石を投じたいと思っている。

 

では、少年法について。そもそも世間一般の少年法に対するイメージの多くはこうだろう。

少年法が少年を守っている。」

「20歳未満が少年とされている。」

「少年だという理由で罪が軽くなる。」

少年法が少年を庇う構図が、少年犯罪を助長する要因の一つとなっている。」

「それゆえ少年法は今後も厳罰化が検討されるべきもの。」

などなど。

そして恥ずかしながら、少年法をある程度勉強した自分でさえも、このようなイメージを、「ほんとうは違う」と言い切りたいのだが上手く払拭できず、しばらく抱き続けていた。

上記のように少年法には諸々のイメージがあるが、そのイメージの根底にある共通項は結局のところ、「少年法は罪を犯した少年に対する処罰を減刑しているが、それについて理解できない」という非難の色を帯びた歯がゆい不満である。確かに、「少年」という理由で処罰が軽くなっている側面はある。が、厳密にいえば、それは軽くなっているように「見える」というだけなのである。「少年」だから「軽くする」という単純な構図で割り切って考えることは、実はできない。

ただ、「少年」という理由で処罰が「軽く」*1されることがあるのも事実である。では、なぜ「軽く」されることがあるのか。その理由は、「軽く」することがその少年にとって必要だと判断されたからである。ここで結論を先に述べてしまえば、少年法とは結局、「非行を犯したその少年に、最も必要な措置を与えてあげるために特別に設計された法律」なのである。つまり、その少年には刑罰を「軽くする必要」があった。だから「軽く」された。それだけなのだ。そして逆に言えば、「軽くする必要」がないと考えられれば、「軽く」されないのである。

要するに、少年法においては、少年一人一人に「必要な処遇」を個別的にその都度考えて決定し、与えたいという理念がある。その一方で、成人を処罰する刑法においては、少年法のような個別具体的な判断枠組みが法律上担保されていない。つまり刑法では、「この人に必要な処遇は何か」という一人一人の個別的な事情を考えることが予定されていない。だから少年法を作ったのだ。その人が犯した罪に対して画一的に刑罰を発動させる刑法とは違って、その少年の個別的な事情を汲み取った上でその少年にほんとうに必要な処遇を考えて決定するために、少年法は作られたのである。

そしてここで根本的な疑問に直面する。「ではなぜ、少年に限って、そのように一人一人の個別的な事情を斟酌して悩んでやる必要があるのか」と。また、この疑問は「少年法が少年を守る意義がわからない」という声を上げる人が抱いている不満の根底にある問題意識と共通している気がする。「少年を特別扱いする」ことに対する問題意識である。そしてこの問題意識を上手く噛み砕くことができない限り、少年法を理解することはおそらくできない。

「なぜ、少年一人一人の事情を逐一考えたうえで処遇が決定されるのか。」

「成人と違った取り扱いをするために少年法は作られたというが、少年を特別扱いするのはなぜなのか。」

少年法を理解する上で避けては通れない前提であり、同時にまた、最も理解されにくい理念でもある。そして少年法が「正しく理解されていない」のは、この理念が社会に広く浸透していないからだと僕は考えている。

 

続きます。

少年法と格闘する(2) - Time is up

*1:成人と比べて刑が「軽くされている」という表現は厳密に言えば適切ではない。ざっくり説明すると、成人に科されるのは「刑罰」であって、少年法が少年に課す「処遇」とは別のものであり、そもそも比較対象にならないからである。

プレゼント

 

 

知り合いの誕生日は気に留めて忘れないようにしている。プレゼントを渡すためだ。

僕はプレゼントを選ぶことが好きだ。プレゼントというと、「何をあげていいのかわからない」という声を上げる人が少なからずいる。そう。プレゼントを選ぶのは難しいのである。何をあげれば相手が喜んでくれるのかわからない。「もらえるものなら何でも嬉しい」と言ってくれる相手であっても、やっぱり考え込む。考えに考えても結局わからなくて、もうどうでもよくなってしまいつつも、「いや、しっかり考えないと」と身を奮い立たせ、逡巡する。無駄に気疲れする。だから、「プレゼント選びが好き」と言う僕みたいな人はおそらく珍しい。ただ、僕が「プレゼント選びが好き」と豪語できるのは、前提としてまず、僕のプレゼントが毎回決まっているからである。毎回決まっているからこそ、プレゼント選びの気疲れに悩まされることがあまりないのである。では、僕が決まってプレゼントしているものは何なのか。本である。誰かに何かをプレゼントする機会がある場合、僕は本を贈るようにしているのである。だから、僕のプレゼント選びは「何をあげようか」ではなく「どの本をあげようか」というところから始まる。そしてプレゼントする本を選ぶ過程それ自体が面白いと思っている。自分が読んだことのある本の中から探すのは前提として、自分の好きな本ではなく、プレゼントする相手が「読むにふさわしい」本を考えて、選んで、贈る。その人が読めば素直に良さがわかるような本。その人と相性の良い本。そういった本を選んで贈るようにしている。そしてそのような本を上手く選ぶためには、その人の性格や趣向を日頃からよく観察しておく必要がある。なかなか奥が深いと思う。だから僕は「プレゼント選び」が好きなのである。

本のプレゼントは、みんな素直に喜んでくれる。しばらく経って「あの本、読んだよ」と声を掛けてくれることもある。そこからまた会話が広がるのも良い。それに僕は「相性の良さそうな本を選んだ」とか「きっと良さがわかってくれると思う」と一言添えて相手に渡しているから、「面白く読めた」とか「選ぶセンスが良い」といった感想はすごく嬉しい。それはそのまま、僕にとっていちばん応えるお礼の言葉になっている。

もらって嬉しいプレゼントというのはどういうものだろうか。もちろん、自分の趣味に合うものや、自分のニーズにマッチしたものがもらえれば嬉しい。「欲しかったもの」がもらえたのだから。ただ、プレゼントの嬉しさの本質は「欲しいものをもらう」ところよりも、もう少し別の部分にある気がしている。

おそらく、もらって嬉しいプレゼントの本質は「プレゼントを贈ってくれた相手が、自分のことを思って悩んでくれた背景」がなんとなく見えるところにあるのだと思う。誰かが自分を喜ばせるために悩んでくれていた事実それ自体が嬉しいのであって、その事実が間接的にうまく伝わるものであれば、プレゼントは何であっても構わない。そんな気がしている。そして本のプレゼントは、その「相手を喜ばせるために悩み考えた時間」が見えやすく伝わりやすいのだと思う。本をもらう。読んでみる。共感できる一節に出会う。そのときに、ちらりと「あの人は自分の共感を誘う本を選んでくれたのだ」と感じる。僕も友人から本をもらったことがあるからよくわかる。このとき、プレゼントの本を手渡されたときの嬉しさとはまた違った色の嬉しさが、込み上げてくるのだ。

 

僕はこれからもたくさんの人に出会い、本を贈る機会に恵まれると思う。どんな人に対しても、「この人と相性の良い本は何だろうか」「この人が楽しく読めるのはどんな本だろうか」と悩み考えたい。そしてそのためには当然、僕自身がさらに読書経験を積んで、読書の幅を広げる必要がある。もっと、本を読もう。

人の話を聴くということ(2)

 

人の話を聴くということ(1) - time is up

前回の続きです。

 

「人の話を聴くことが好き」ということの背景にある事情について。大きく二つあると思っている。一つは「相手に自分より多く話してもらうことで話下手の自分が話しすぎることを意識的に避ける」こと。

そしてもう一つについて、今回書いていく。

 

 話し手と聞き手の関係性について。

話すことと聞くこと。唐突な問いだが、どちらの負担が大きいだろうか。確かにプレゼンなど大勢の前で理路整然に堂々と話す能力は評価される。ただ、一対一の会話においては、「上手く相手の話を聞くこと」の方が断然難しいとされているきらいがある。「コミュニケーション能力とは聞き上手であることだ」といった意見を耳にした覚えもある。一対一の会話において、話すことは造作でもないことだという前提があるのだろう。だから余計に、「聞き上手」であることが重宝される風潮がある。

そういった「聞くことの負担」をこちらが多く引き受けることで、相手側に「聞き手に回ることの負担」を与えることを多少なりとも減らしてあげたいという思いも、「人の話を聴くことが好き」として聞き手に回ることを促している一つの要因なのかもしれない。もしかしたら相手は「聞き手に回ること」をストレスに感じないかもしれない。けれども、実際のところはわからないから、最初から敢えてこちら側で頻繁に聞き手に回ってしまうことで問題に蓋をしてしまうのである。

また、話し手と聞き手の関係性という観点からさらに個人的な考えを言えば、僕は純粋に、自分の目の前で楽しそうに話している相手を見るのが好きなのである。母親は子どもの曖昧で意味不明な語りかけであっても、その一生懸命話そうとする子どもの姿が愛おしくて子どもの話に笑顔で耳を傾ける。そのときの母親の感覚に近いのかもしれない。相手が自分に話しかけてくれる。その関係性それ自体を楽しんでいるのである。

誰かが自分に話しかけている。誰かが聞き手を求めている。そしてその聞き手を自分が引き受ける。そうすることで、その誰かから自分が求められている感覚を得ることができる。自分が誰かから求められることを実感することは承認欲求や自己肯定感を高めることに寄与する。誰かに必要とされる感覚。それを聞き手に回って相手の話にウンウン頷くことで得ている。相手の話に真剣に耳を傾けることは、話し手の話を促し話し手を心地良くさせるだけではない。聞き手であるこちらも助けられている。「聞くことは難しい」と思ったことは僕は一度としてない。相手が一生懸命話そうとしてくれればくれる程、僕は聞き手という役割を越えて、相手から必要とされている実感を味わうことができる。非常に利己的だ。

 

前回言及した点と合わせて考えると、「人の話を聴くことが好き」というのは僕にとって、相手に余計なストレスを与えることを極力避けながら最終的には自分の承認欲求を高める手段として聞き手の役割に躊躇いなく回るための自己欺瞞なのではないか、というのが今のところの落とし所である。とはいえ、お互い気持ちよく会話ができればそれでいいし、利己的な理由から聞き手に回ることに後ろめたさを感じる必要もない気はする。

ただ、これからは人前で「人の話を聴くのが好きなんだ」と言うのは控えようと思っている。

人の話を聴くということ(1)

 

就職活動の面接で「自己PRをして下さい」と言われたとき、いつも答えていたPRの一つに「私は人の話に真摯に耳を傾けることができます」というくだりがある。

要するに「人の話を聴くことが好きな人間です」というアピールである。それを説得づける具体的なエピソードの話は多少”盛って”話すことはあれども、「人の話を聴くことが好き」という点に関しては偽りはなかった。

 

ただ最近思うのは、果たしてほんとうに自分は「人の話を聴くこと」が好きなのだろうかということだ。「人の話を聴くのが好き」という人は割とよくいる。そういう人は相手の話に合わせて適度に相槌を返し、首尾よく相手に質問を挟み、話を掘り下げるのが上手い。そして終始、興味津々で楽しそうな顔で相手の話を聴いている。「聞き上手」という言葉があるが、おそらく「人の話を聴くのが好き」という人の大半が自分のことを「聞き上手」な人間であると自負している。恥ずかしながら自分もその一人である。

 

とはいえ、そもそも「人の話を聴くこと」とはどういうことなのだろうか。

これについて突き詰めて考えてみると、今まで自分が「人の話を聴くことが好き」だと言ってきたことに自信を持てなくなった。

「人の話を聴くこと」を好きだと言ってきた背景には何があるのか。

 

   

―――と、 普遍性がありそうな切り口で書き始めたのだけれど、以下はあくまで僕の個人的な実感に基づく分析であることを断りつつ、書いていきます。

 

 

「人の話を聴くことが好き」と感じる背景には大きく二つの要因があると思っている。今回はそのうちの一つについて書く。

 

ここで「人の話を聴く」とは一対一の会話を念頭に置く。三人以上の会話だと一対一の会話とはまた違った機微があり、それに応じた努力が必要になるからだ。一対一の会話においては役割が明確である。話し手と聞き手。そしてその役割は目まぐるしく取って代わる。一方が延々と話すことはまずない。双方に話す場面が確定的に存在している。

ではここで「話を聴くことが好き」というある種の長所は一対一の会話においてどのように作用するのか。自分も「話を聴くことが好き」だと豪語していた一人であり、いつも聞き手に回っていた自覚はある。相手にもよるが、体感としては3対7または4対6くらいの配分で相手に多く話してもらうことに心地良さを感じる。

とはいえそのような配分で会話が進むことで生じる心地良さというのは、「話を聴くことで生じる心地良さ」だけに留まらず、「話してもらうことによって生じる心地良さ」というのも含まれており、さらに言えば、「自分が話さなくても相手が話すだけで会話が進んでいく安堵感」といった心持もある。というのも、どこかで「自分ばかりが話しすぎていないだろうか」という危惧があり、自分が意識的に聞き手に回り、自分の話す配分を減らすことで、そのような危惧感からは距離を置けるからである。

要するに、「話を聴くことが好き」と感じる背景には「話を聴くことから生じる心地良さ」があるという事情が多少なりとも関係しているように思えるが、そのような心地良さには、こちら側の話す配分を減らすことで自分が話しすぎることを回避することから生じる安堵感が多分に含まれているように思える。そう考えると、「人の話を聴くことが好き」と言いつつも、本心としては「自分が話しすぎてしまうことの後ろめたさから逃げたい」という気持ちがあるだけであって、「人の話を聴く」というのは長所でもなんでもなく、自分を守るために使われている巧妙なレトリックに過ぎないように感じてしまう。

とはいえその一方で、話好きというか、いつも楽しそうに話している人もいる。そういう人になれたらいいなとも思う。逆に考えれば、自分が話しすぎることをどこかで恐れていて、聞き手に回ることで安堵感を得ることがあるのは、どこかで「自分の話を楽しく話せない」「自分の話は面白くない」という気持ちがあるからだと思う。

 つまり、話下手な自分が話しすぎることを意識的に回避するための言い訳として、僕は「人の話を聴くことが好き」と言ってきた側面があるように思える。そしてそういった側面は、純粋な意味での「人の話を聴くことが好き」という長所とはズレていると言わざるを得ない。

 

 

続きます。

人の話を聴くということ(2) - time is up

 

僕は大学4年のとき、家庭裁判所調査官の試験に落ちた。 

 

ここで家庭裁判所調査官の仕事について簡単に言及しておく。

家庭裁判所の職員で国家公務員。よく誤解されるが、決して裁判官ではない。家庭裁判所といえどもそこで働くのは裁判官だけではなく、幅広い役職や立場の職員が家庭裁判所を運営し、支えているのである。家庭裁判所調査官は家庭裁判所を支える職種の一つだ。悪く言えば、家庭裁判所の歯車である(悪く言い過ぎかもしれない)。

それで、家庭裁判所調査官の実際の仕事は「調査官」の名がつく通り、調査することである。何を。具体的には、家庭裁判所が扱う事件は少年事件と家事事件があって、まず少年事件を担当する場合は、実際に非行少年と面談したり家庭環境を調べて少年調査票という書類にまとめる。そしてその少年調査票という書類が、裁判官が「この非行少年を少年院に送るべきか、保護観察につけるべきか云々」という最終的な決定を下す際の参考資料となる。要するに、裁判官が読む参考資料を作成するのである。その非行少年の何が問題なのか、家庭環境や背景事情も含めて調査してまとめる。

もうひとつの家事事件の場合は、出生認知から遺産相続まで幅広く、一筋縄で説明できる自信がないのだけれど、家庭裁判所調査官の役割はここでもやはり、裁判官の最終的な決定の判断材料となる資料を作成することである。法律問題を抱え家庭裁判所にやってきた家庭の情報を収集し、資料にまとめ、裁判官に提出する。裁判官は家庭裁判所調査官が作成した資料に基づき、最終的な決定を下す。

 

そして家庭裁判所調査官は、その調査の過程で、非行少年や親族と実際に面談、面接する機会が多い。そのため、裁判所の職員ではあるが、法律の知識に加え、心理学的な素養が全面的に求められる仕事であるとされる。

ゆえに、家庭裁判所調査官はいわゆる「心理系公務員」という位置づけがなされており、採用試験の科目も当然、心理学のウエイトが大きく占めている。

 

僕は法学部の学生だったから、家庭裁判所調査官の仕事を少年法の講義で知った。   

いまひとつイメージが掴みにくい仕事であるかもしれないが、自分は家庭裁判所調査官になりたかった。

その最大の理由は、「人の話を聴くこと」が求められる仕事であるからである。 

友人のちょっとした相談話を聴く、というレベルではなく、非行少年と一対一で話を聴いたり、家庭の法律問題で悩んでいる親族に実際に会い、話を聴くことができる。内容としてはかなりデリケートな部分に踏み込む。

自分自身、「人の話を聴くこと」は好きだし、興味がある。家庭裁判所で扱われるようなデリケートな内容なら尚更、真摯に耳を傾けたくなる。

だからこそ、人の話に真剣に耳を傾け、それを資料にまとめることで裁判所の運営に貢献できるという家庭裁判所調査官の仕事は、魅力的だったし適性もあると考えた。

 

けれども、思い通りにはならなくて。

いつもそうだ。いつもそうだから、不合格という結果に対しては、不思議と素直に受け入れることができた。「やっぱり俺ってこうなるよね」という達観が、すでに胸の底にあったのだろう。いつもそうだ。思い通りに物事が進んでいかない。高校受験も大学受験も第一志望には届かなかった。勝負事に弱い。本命を手に入れることの喜びを知らない。そして皮肉なことに、あらゆる本命を逃し続けた末に穏やかな諦念が染みつき、悔しさから距離を置くことを僕はいつのまにか覚えていた。

来年の春から社会人として、望んでいた進路とは別の道に進む。

大学入学のときもそうだった。入学しているにもかかわらず、「こんな進路を望んではいなかった」と忸怩たる思いをしばらくずっと噛みしめていた。

だけどいま、大学生活を思い返してみると、「この大学を選んでよかった」と感じることが多い。入学直後の暗澹たる気持ちが、むしろ懐かしい。僕はすごく単純な人間だ。

たぶん、僕はこれからも選択を迫られたとき、自分の望んだものは結局、選び取れないと思う。いままでがそうであったように。あらゆる本命、あらゆる第一志望をなぜかどうしても手に入れることができない。「なんであいつはいつも要領が良いんだ」と、世渡り上手に見える周りの人間にいつも羨望の眼差しを向けている。これからもきっとそうだ。だけど自分に同情してばかりいるのも格好悪いので、目の前のやるべきことに淡々と向き合っていこうと思っている。望んだ道ではないけれど。

どうせ数年後の自分が前向きな感情で解釈してくれる。