Time is up

途中を終わらせたいんだ。

人の話を聴くということ(1)

 

就職活動の面接で「自己PRをして下さい」と言われたとき、いつも答えていたPRの一つに「私は人の話に真摯に耳を傾けることができます」というくだりがある。

要するに「人の話を聴くことが好きな人間です」というアピールである。それを説得づける具体的なエピソードの話は多少”盛って”話すことはあれども、「人の話を聴くことが好き」という点に関しては偽りはなかった。

 

ただ最近思うのは、果たしてほんとうに自分は「人の話を聴くこと」が好きなのだろうかということだ。「人の話を聴くのが好き」という人は割とよくいる。そういう人は相手の話に合わせて適度に相槌を返し、首尾よく相手に質問を挟み、話を掘り下げるのが上手い。そして終始、興味津々で楽しそうな顔で相手の話を聴いている。「聞き上手」という言葉があるが、おそらく「人の話を聴くのが好き」という人の大半が自分のことを「聞き上手」な人間であると自負している。恥ずかしながら自分もその一人である。

 

とはいえ、そもそも「人の話を聴くこと」とはどういうことなのだろうか。

これについて突き詰めて考えてみると、今まで自分が「人の話を聴くことが好き」だと言ってきたことに自信を持てなくなった。

「人の話を聴くこと」を好きだと言ってきた背景には何があるのか。

 

   

―――と、 普遍性がありそうな切り口で書き始めたのだけれど、以下はあくまで僕の個人的な実感に基づく分析であることを断りつつ、書いていきます。

 

 

「人の話を聴くことが好き」と感じる背景には大きく二つの要因があると思っている。今回はそのうちの一つについて書く。

 

ここで「人の話を聴く」とは一対一の会話を念頭に置く。三人以上の会話だと一対一の会話とはまた違った機微があり、それに応じた努力が必要になるからだ。一対一の会話においては役割が明確である。話し手と聞き手。そしてその役割は目まぐるしく取って代わる。一方が延々と話すことはまずない。双方に話す場面が確定的に存在している。

ではここで「話を聴くことが好き」というある種の長所は一対一の会話においてどのように作用するのか。自分も「話を聴くことが好き」だと豪語していた一人であり、いつも聞き手に回っていた自覚はある。相手にもよるが、体感としては3対7または4対6くらいの配分で相手に多く話してもらうことに心地良さを感じる。

とはいえそのような配分で会話が進むことで生じる心地良さというのは、「話を聴くことで生じる心地良さ」だけに留まらず、「話してもらうことによって生じる心地良さ」というのも含まれており、さらに言えば、「自分が話さなくても相手が話すだけで会話が進んでいく安堵感」といった心持もある。というのも、どこかで「自分ばかりが話しすぎていないだろうか」という危惧があり、自分が意識的に聞き手に回り、自分の話す配分を減らすことで、そのような危惧感からは距離を置けるからである。

要するに、「話を聴くことが好き」と感じる背景には「話を聴くことから生じる心地良さ」があるという事情が多少なりとも関係しているように思えるが、そのような心地良さには、こちら側の話す配分を減らすことで自分が話しすぎることを回避することから生じる安堵感が多分に含まれているように思える。そう考えると、「人の話を聴くことが好き」と言いつつも、本心としては「自分が話しすぎてしまうことの後ろめたさから逃げたい」という気持ちがあるだけであって、「人の話を聴く」というのは長所でもなんでもなく、自分を守るために使われている巧妙なレトリックに過ぎないように感じてしまう。

とはいえその一方で、話好きというか、いつも楽しそうに話している人もいる。そういう人になれたらいいなとも思う。逆に考えれば、自分が話しすぎることをどこかで恐れていて、聞き手に回ることで安堵感を得ることがあるのは、どこかで「自分の話を楽しく話せない」「自分の話は面白くない」という気持ちがあるからだと思う。

 つまり、話下手な自分が話しすぎることを意識的に回避するための言い訳として、僕は「人の話を聴くことが好き」と言ってきた側面があるように思える。そしてそういった側面は、純粋な意味での「人の話を聴くことが好き」という長所とはズレていると言わざるを得ない。

 

 

続きます。

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