Time is up

途中を終わらせたいんだ。

心理療法家の言葉の技術

 

うまく言葉を選んで相手に伝えることができる人になりたいと思っている。

気の利いた言葉で、誰かを励ましたり慰めたりできる人になりたいと思っている。

自分が遣う言葉にもっと敏感になりたい。言葉は刃物。いつもどこかで、自分の言葉が誰かを傷つけてしまっている気がする。真偽はわからない。誰かを傷つけてしまう言葉は、自分が無意識のうちに放った言葉の中にあることが多いと思っているから。もっと慎重になりたい。この言葉を投げることで相手が抱くであろう感情を先読みする力が不可欠だ。いくらか想定される言葉の選択肢を吟味して、選んで、声にして、伝える。とはいえこんなことは誰だってやっていることだと思う。ただ精度が違うだけだ。そして僕は、この「言葉を吟味する」という作業の質が頗る悪いと自覚している。

自分が言い放つ言葉が相手にどのような感情を抱かせるのか。もっと突き詰めて考えないと駄目だと日々痛感している。「相手の立場に立って考える」ことに対して、もっと意識的かつ慎重に向き合う必要がある。相手の立場になって考える。まさしくその通り。その通りなのだけれど、これが非常に難しい。なぜか。どこまでいっても自分の主観を抜くことができないからである。

「相手の立場に立って考える」

「相手の気持ちを想像する」

それらはあくまで、「自分が考える相手の立場や気持ち」であって、自分の価値観が染みついた想像の域にある。相手の感情を考えるにあたって、自分の想像力や価値観がどうしても纏わりついてくる。自分の「枠」を越えることができない。限界がある。

だけどそれは当然のことで、誰でもそうなのだと思う。目の前の人と向き合い、その人の気持ちを考えながら言葉を選ぶうえで、自分の想像力の範疇を越えることはできない。だからしばしば、「自分の言葉がいまひとつ相手に響かない」とか、「もっとうまい言い方があったのかもしれない」と、後悔したり思い悩んだりする。

 だからこそ、自分の気持ちを先回りして受け止めてくれるような人や、自分の感情にうまく寄り添う言葉を掛けてくれるような人に救われると、感謝と畏敬で頭が上がらない。その人の心の深さや広さを素直に尊敬してしまうし、人としての「枠の広さ」を羨ましくも思ってしまう。

ではその「枠の広さ」のようなものは、どのように培われるのか。ある程度は人生経験の差によるものなのだと思う。どれだけ多くの人と出会い、どれだけ多くの感情と出会って悩み、向き合ってきたか。その差だと思う。

けれども、そういった人生経験が蓄積されていくのを呆然と待っているだけでは飽き足りないという思いが自分の中にはある。傲慢なことかもしれないが、それでは遅いと思うのだ。それが他人の感情と向き合う懊悩の末に、いつの間にか身につく術だとしても、僕はそれをいますぐにでも覚えて意識的に使いこなしたい。全く以て青臭い願望である。

そのためには自分の人生経験の蓄積と結晶化を待つだけではなく、並行する形で、先人たちが積み重ねてきた知識や構造化された理論に頼り、学び取っていくことが早道だと考えている。では、どこから手を広げていくのが先決か。僕は心理学だと思っている。

対人関係における言葉の遣い方に過剰なまでの神経を払い、気を遣うことが求められる心理学領域のひとつとして、カウンセリングがある*1。相手の自尊心を傷つけないように言葉を選び、相手の価値観や相手の枠組みを踏まえたうえで話し、会話を進めていく。カウンセリングで求められる基本的態度であり、いまの自分には欠けている視点である。カウンセラーや臨床心理士を志しているわけではないけれど、「言葉を選び、遣う」ことに慎重になることが求められるという点において学び取るところは少なくない。それを自分の言葉を磨く足がかりにできればいいと考えている。

もっと勉強したい。時間はいくらあっても足りないように思える。

 

www.amazon.co.jp

*1:とはいえ厳密にいえば、カウンセリングはクライエント(来談者または患者)に対する言葉の遣い方を研究する学問領域とはそもそも言い難く、カウンセラーの「言葉遣い」に焦点をあてた研究は、最近になってようやく日の目を見るようになってきたきらいがある。