Time is up

途中を終わらせたいんだ。

人の話を聴くということ(2)

 

人の話を聴くということ(1) - time is up

前回の続きです。

 

「人の話を聴くことが好き」ということの背景にある事情について。大きく二つあると思っている。一つは「相手に自分より多く話してもらうことで話下手の自分が話しすぎることを意識的に避ける」こと。

そしてもう一つについて、今回書いていく。

 

 話し手と聞き手の関係性について。

話すことと聞くこと。唐突な問いだが、どちらの負担が大きいだろうか。確かにプレゼンなど大勢の前で理路整然に堂々と話す能力は評価される。ただ、一対一の会話においては、「上手く相手の話を聞くこと」の方が断然難しいとされているきらいがある。「コミュニケーション能力とは聞き上手であることだ」といった意見を耳にした覚えもある。一対一の会話において、話すことは造作でもないことだという前提があるのだろう。だから余計に、「聞き上手」であることが重宝される風潮がある。

そういった「聞くことの負担」をこちらが多く引き受けることで、相手側に「聞き手に回ることの負担」を与えることを多少なりとも減らしてあげたいという思いも、「人の話を聴くことが好き」として聞き手に回ることを促している一つの要因なのかもしれない。もしかしたら相手は「聞き手に回ること」をストレスに感じないかもしれない。けれども、実際のところはわからないから、最初から敢えてこちら側で頻繁に聞き手に回ってしまうことで問題に蓋をしてしまうのである。

また、話し手と聞き手の関係性という観点からさらに個人的な考えを言えば、僕は純粋に、自分の目の前で楽しそうに話している相手を見るのが好きなのである。母親は子どもの曖昧で意味不明な語りかけであっても、その一生懸命話そうとする子どもの姿が愛おしくて子どもの話に笑顔で耳を傾ける。そのときの母親の感覚に近いのかもしれない。相手が自分に話しかけてくれる。その関係性それ自体を楽しんでいるのである。

誰かが自分に話しかけている。誰かが聞き手を求めている。そしてその聞き手を自分が引き受ける。そうすることで、その誰かから自分が求められている感覚を得ることができる。自分が誰かから求められることを実感することは承認欲求や自己肯定感を高めることに寄与する。誰かに必要とされる感覚。それを聞き手に回って相手の話にウンウン頷くことで得ている。相手の話に真剣に耳を傾けることは、話し手の話を促し話し手を心地良くさせるだけではない。聞き手であるこちらも助けられている。「聞くことは難しい」と思ったことは僕は一度としてない。相手が一生懸命話そうとしてくれればくれる程、僕は聞き手という役割を越えて、相手から必要とされている実感を味わうことができる。非常に利己的だ。

 

前回言及した点と合わせて考えると、「人の話を聴くことが好き」というのは僕にとって、相手に余計なストレスを与えることを極力避けながら最終的には自分の承認欲求を高める手段として聞き手の役割に躊躇いなく回るための自己欺瞞なのではないか、というのが今のところの落とし所である。とはいえ、お互い気持ちよく会話ができればそれでいいし、利己的な理由から聞き手に回ることに後ろめたさを感じる必要もない気はする。

ただ、これからは人前で「人の話を聴くのが好きなんだ」と言うのは控えようと思っている。