Time is up

途中を終わらせたいんだ。

執着を棄てた末に、なにが残るのか

 

「好きな作家は?」と訊かれることがある。いつも「夏目漱石」と答えている。

理由は大きく二つある。一つは文章の美しさである。何度読んでも味わい尽くせないその美文は、読む度に違った色合いを見せる。読むに堪える文章。飽きさせることがない。

そしてもう一つの理由は、漱石の思想である。

こちらの理由の方が自分の中では大きい。漱石の小説には、孤独や人間への不信を表現する文章が多く目につく。なかでも『こころ』は圧巻であると思っている。僕はそれを折に触れて読み返す。漱石の小説で読み返した数が最も多いのも『こころ』である。

夏目漱石の『こころ』。言わずと知れた国民的近代小説。「私はその人を常に先生と呼んでいた」という書き出しの第一文はあまりにも有名で、語り手である「私」が「先生」を回想する形で物語は進んでいく。

『こころ』は当時、朝日新聞に掲載されていた連載小説である。そして漱石は『こころ』に関して、「人間の心を探求しようとする者はまずこの作品を読め」と喝破した。自分で言ってしまえるところが流石である。まさに漱石自身の言う通りで、人間関係に関する心の内的葛藤を描いた名作である。

『こころ』のなかで好きな文章がある。「先生」の台詞だ。

 「かつてはその人の膝の前に跪いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとするのです。私は未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥けたいと思うのです。私は今より一層淋しい未来の私を我慢する代わりに、淋しい今の私を我慢したいのです。自由と独立と己れとに充ちた現代に生れた我々は、その犠牲としてみんなこの淋しみを味わわなくてはならないでしょう」 

 

 

僕は人間関係を維持させる力が頗る弱いと自覚している。

親しくしていると思っていた相手から、いつのまにか距離を置かれていると感じることは少なくない。人との関係性が変わりやすい、気がする。だから関係性を定義する言葉を遣うことが好きではない。「友だち」ではなく「同級生」。「仲が良い」ではなく「別に普通」。誰にでも分け隔てなく接し、誰とでも仲良くなりたいと思う一方で、相手から距離を置かれることを畏れている。気がつけば「距離を縮めたい」という願望を棄てることを僕は覚えていた。覚えさせていた。

ただ最近、ふと考えることがあった。

それは、自分自身も誰かに対して距離を置くようになり、関係性を自ら変えてしまっていることがあるのではないか、ということだ。

 

 

先日の話である。

僕は彼とおよそ一年振りに再会した。彼とはアルバイト先の同期として出会った仲である。大学は違うのだけれど同い年で気の合うところも多く、かなり仲が良かった時期があった。プライベートでも彼とは二人でよく飲みに行ったり、遊びに行ったりしていた。

ただ、彼はイギリスに留学するため、一年まえにアルバイトを辞めていたのである。

その彼が先日帰国して、アルバイト先に遊びに来ていた。彼が来た日に僕はたまたまシフトに入っていたため、顔を合わせることになったわけである。

彼のことを知っている他のアルバイト仲間は彼との再会を心から喜んでいるようであった。彼はもともと陽気な性格で、よく喋りよく笑う。ムードメーカーとしても周りからの信頼は厚かったし、留学を理由にアルバイトを辞めるときも、散々別れを惜しまれていた。

そして僕も、彼がアルバイトを辞めるときにはやはり寂しさを感じていた。「もうこいつと二人で呑んだりすることは当分できないな」。そう思ったことを覚えている。

 

そんな彼との再会。

僕も周りと同じように、彼を心から歓迎することができればよかった。しかし、僕にはそれができなかった。なぜだろう。自分でも驚くほどにあっさりとしていた。もはや彼に対して、興味がなかったのである。留学でどんな経験をしてきたとか、これから新しいアルバイトはどうするのだとか、どうでもよかった。そしてこのとき気がついた。僕は対人関係に臆病である一方で、とても薄情な奴だった。

 「帰ってきたし、またご飯でも行こう」

別れ際に彼が残した言葉にさえ、なぜだか苛立ちを覚えた。

「なぜ俺が今でもおまえを好意的に感じているとおまえは信じているのか」

そう思ってしまった。

表情に苛立たしさが走る。彼に向ける顔がなかった。

 

自責の念に胸を締めつけられる。彼の期待に応えられない自分になってしまっていたことが申し訳なかった。そう。僕には対人関係を畏れる資格なんてなかったのだ。

関係性の変化に怯えたり、距離を縮めることを避けたりする背景には、「あるときを境に相手から距離を置かれ、傷ついた経験」のようなものがあったのだと思う。僕はそれまで、被害者的な立ち位置としての自分にしか目が向いていなかった。

とはいえ自分だって、誰かとの関係性を棄てる方向に働きかけてしまっていることがある。それを自覚してしまったのだ。ひどくせつなかった。

 

自分も誰かに対して距離を置いたり、「このひと何か違うな」と感じたりすることがあるということ。人間関係の持久力は、とてつもなく個人の勝手に左右されるものであり、自己中心的な論理に振り回されているということ。そうなのかもしれない。そりゃ疲れるわけだ。思い悩んでも仕方がない。自分の振舞いが原因となって破綻する関係性も勿論多いだろうけど、それと同じくらい、相手の「なんとなく」が原因で崩れる関係性も、おそらく多いのだ。そして、その相手の「なんとなく」は、たぶん自分の振舞いや接し方を変えても覆すのが難しい感情で、自分の働きかけでどうにかできる性質のものではない。それはその人の感情だから。誰かの「なんとなく」から生じる嫌悪感や不快感をこちら側で統制することはできない。いや、できるのかもしれないけれど、できないと考えておいたほうが無用な気疲れをせずにすむ。そう思っている。

その一方で、自分勝手に支配される対人関係は、自分勝手に復活したり修復されたりするものなのかもしれない。だから留学から帰国した彼とも、また会いたくなるときが僕にも来るのかもしれない。自分の気まぐれだ。ほんとうにうんざりする。

ただ、僕がいつか彼とまた会いたくなったとき、

そのときに彼が「じゃあ会おうか」と言ってくれるかはわからない。