Time is up

途中を終わらせたいんだ。

少年法と格闘する(2)

 

前回(少年法と格闘する(1) - Time is up)の続きです。 

 

少年法は少年に対する制裁を「軽く」している事実は確かにあるが、それは「軽く」することが「必要」だと考えられたからにすぎないのであって、「少年だから軽くする」という単純な構図では決してないということ。

・そして少年一人一人に「何が必要か」をとことん考えることを法律上担保するために、少年法は作られたということ。

・逆に、成人に適用される「刑法」には、一人一人の個別的な事情を汲み取って刑罰を考えるプロセスが予定されていないということ。

・では少年法の前提でもある「少年を成人と分けて特別扱いすること」はどのような理念に支えられ、正当化されているのか。これが最も理解されるべき問題意識であるということ。

 

おおまかに上記のことを前回の記事で書いた。

今回は「少年を成人と分けて特別に扱うこと」という問題意識について切り込んでいきたい。そして前回の記事でも書いた通り、この問題意識は「少年法が少年を守る意義がわからない」と言う人にも是非考えてみてほしい。この点を上手く噛み砕くことができれば、少年法に対する印象も自ずと変わってくると思うからである。

 

では本題。刑法とは別に少年法という法律を特別に作り、少年を成人と分けて特別扱いするのはなぜか。その理由を理解するためには、少年法が前提として考えている「少年像」を理解することが必要となる。では少年法が前提としている「少年像」とはどんな少年か。それは「人格が未成熟で、周りの環境に流されやすい人間」である。そしてその未成熟な人格は、周りの環境に影響されて形成されていくという前提に立つ。とはいえ、周りの環境によって人格が形成されるということは、人格の成熟が環境に依存するという意味で、不安定なものである。これは考えてみると恐ろしいことである。というのも、比較的健全な環境で育てば健全に成長することができ、非行とは縁のない生活となる場合がある一方で、置かれた環境によっては、非行傾向のある人格が形成されてしまうこともあり、それが実際の非行として表出する場合があるからである。

非行傾向のある人格が形成されるか否かは、置かれた環境次第。つまり、少年法が前提とする「少年像」の考え方に拠って考えると、非行少年の根本的な人格そのものの善悪については、少年法は基本的に問題としない。むしろ、その少年が「なぜ非行するに至ったのか」という少年の非行傾向を形成させた家庭環境等の環境面の問題を重視する。最初から非行傾向のある人格をもって生まれる少年はいない。少年法性善説に基づく「少年像」を掲げているとも言える。

極端に言えば、「非行の原因は、その少年が置かれてきた環境のせい」だという前提に少年法は立っている。ただ無論、全てを環境のせいにしてしまうわけではない。あくまで、非行の原因を考える際に「その少年がそれまで置かれてきた環境」を重視するウエイトが非常に高いというだけである。「環境面での問題はなかったのか。」少年法では前提としてまず、この視点から非行少年と向き合うことが求められている。

要するに、少年法は人格が未成熟な少年像をまず前提に据えている。そしてその未熟な人格は、しばしば生まれ育った環境の影響を受けて成熟していくとされる。ゆえに、非行傾向のある人格を形成してしまってもやむを得ないような環境下において生まれ育てば、その少年は非行傾向を備えてしまう。そして非行を引き起こしてしまう。少年法の前提とする少年像に基づけば、非行少年が生まれるメカニズムはこういう案配なのである。

「子どもは親を選べない。」まさにこの言葉通りで、どんな親に育てられるかというのは、子どもの人格形成上かなり重要なファクターである。僕は、平凡ではあるけれどある程度は常識的でまともな両親に育てられ、非行とは縁なく生きてきたからうまくイメージができないのだけれど、いわゆる「非行少年」と指差されてしまう子どもの多くは、その家庭環境がかなりひどい、らしい。幼少期から虐待を受けていたり、両親ともに育児に無関心であったりして、大人に対する不信感を植えつけてしまっているらしい。人間不信で他人にうまく心を開けない子どもも多い、らしい。

ここまできてようやく、少年法のやろうとしていることが漠然と見えてきたかもしれない。つまるところ、健全に子どもを育てられるとは考えがたいような、劣悪な環境下で育ってしまった子どもに、手を差し伸べてあげようとするのが少年法の狙いなのである。子どもに対して、教育的に健全な環境を提供することができなかった親に代わって、少年法が子どもの面倒を見ようとしているのである。健全な環境で生まれ育たなかった責任は、その子どもにはない。だからその責任を少年法が引き受けて、恵まれなかった子どもに健全な環境で育つ機会を改めて提供し直そうとしているのである。

では、親に代わって少年法が環境的に恵まれなかった子どもに手を差し伸べるとして、具体的にはどのようにして、健全な環境で育つ機会を提供するのか。当然出てくる疑問だと思う。ただ、この疑問は一問一答では答えられない。なぜなら少年一人一人の事情は異なり、事情に応じて必要な環境は違うからである。ここで最初に戻る。そもそも少年法とは、刑法とは異なり、その少年一人一人の個別事情を汲み取ることが予定されている法律である。「この少年に必要な健全な環境は何か。」これをとことん考えるのである。考えに考えた末に、少年院に送るか、保護観察をつけるにとどめるか、そのまま家に帰して様子を見るか、最終的な処遇結果を下すのである。

なお、よく誤解されているが、少年院は少年を懲らしめることを主たる目的とした施設ではない。あくまで矯正教育を行う更生施設である。広い意味で言ってしまえば、「育て直し」を行う施設とも言えるかもしれない。

そもそも少年法の文脈で、「刑罰」や「罰する」という言葉は出てこない*1なぜなら、そもそもの少年法の理念が、「少年が健全に育つことができる環境を、少年法が親に代わって提供する」というものだから。罰するための法律ではないのである。だから少年院も、罰することを一次的な目的としてはいない。

要するに、少年法は少年一人一人の生まれ育った環境にまずフォーカスを当てる。そしてその環境に問題があるならば、どういった環境を与えるのがふさわしいのかを考える。ここで少年一人一人の必要に応じて、個別的に処遇結果が下される。

なお、「少年法が少年を守っている」と少年法を批判する人が不満に思っている「少年は成人に比べ刑が減刑されている」ことに関しても、この文脈で一応の説明ができる。つまり、成人並みの長い刑期を少年に負わせることは、その少年がこれから健全に育っていくことを目指す上で「必要ではない」と考えられているのである。だから成人よりも減刑される。そして「ではなぜ非行を犯すような少年に対しても、教育的配慮をする必要があるのか」という非難に対しては「少年は自分が生まれ育つ環境を選べない。少なくとも20歳になるまでは、少年法が親に代わって健全な教育的環境を少年に与える責任がある」という反論を少年法は用意している。たまたま劣悪な環境で生まれ育ち、たまたま非行傾向のある人格を形成してしまった少年に対して、見捨てずに健全な環境で育つ機会を与えてあげようとするところに少年法の立法趣旨があるのである。

 

以上が少年法の「少年を成人と分けて特別扱いすること」の根底にある理念である。

ただ、世間でよく言われる少年法批判はまだまだある。

「少年に健全な教育環境を与えることが目的とはいえ、健全な環境を与えても非行を繰り返す少年はいるのではないか。」

「健全な環境を与えても、少年は更生しないのではないか。」

「人を殺したような少年に対しても、育った環境が悪かったという理由で片づけるのは遺族感情への配慮が欠けているのではないか。」

などなど。

これらの問題は非常に難しい。少年法の教科書にも載っていないし、大学の講義でも触れられなかった。ただ、僕なりに思うところはある。それについてはまたどこかで書いてみたい。

 

*1:前回の記事では便宜上、「刑罰」や「処罰」という言葉を使ってしまっていたのだが。少年院送致や保護観察処分といった少年法における最終的な法的強制措置は「処遇」といって、「刑罰」や「処罰」とは全く別の概念なのである。