Time is up

途中を終わらせたいんだ。

読書が趣味、という人

 

趣味を訊かれて「読書」と答える人は多い。自分もその一人だ。そういう人は読書が習慣化しているだろうし、習慣化している自覚があるから「読書が趣味」と言い切れる。

 

とはいえ、読書量には当然のことながら差がある。一日のうち読書に割ける時間は人それぞれ違うのだから。「本は好きだけど、趣味って言えるほどでもない」と言う人を見かけることが多々あるけれど、「読書を趣味に位置付けることが認められるにはこのくらいの読書量がないといけません」という基準があるわけでもないし、読書という行為が好きなら自信を持って「趣味は読書です」と言えばいいと思う。「時間があるときに気が向いたら本に手を伸ばす」程度の姿勢であっても、純粋に読書を楽しむことができるのならそれで十分だし、読書量や読書習慣の深さなど、比べるものではない。

 

要するに、読書量関係なく読書が好きなら「趣味」と言ってしまえばいいというのが持論なわけだけど、これを敷衍すれば、「読書が趣味」という人には実は大きく二つのパターンがあるのではないかということに気づく。つまり、ひとつは「(読書量の差はあれども、)純粋に読書が好きだから読書が趣味」という人で、もうひとつは「(読書は別に好きではないが、)読書が習慣化しているから読書が趣味」という人だ。

 

ここでどちらのパターンが良いだの云々を議論する気はないし、する必要もないと思っている。ただ、自分は後者のパターンである。つまり、「読書が好きだから本を読む」といったある種の感動経験はあまりなく、ただ読書が習慣化している事実があるから、その事実に則り「読書が趣味」と漫然と答えているだけなのである。

 

ただ、やはり一つの疑問が残っている。それは「好きでもないことが習慣化することがあるのか」という疑問である。「趣味」と位置付けることができる娯楽の類は世に溢れているけれど、そのほとんどは好きでないと継続できないだろうし、「好きではないけれど継続してやれている」といった感覚から趣味と位置付けられる娯楽は、読書以外にあまりない気がしている。

 

「読書が好きでもないに読書する習慣がある」という実感は、純粋に読書好きの人にはわからない感覚なのかもしれないし、もしかしたら自分だけが漠然と感じているもので、共感を誘う感覚ではないかもしれない。ただ、自分自身は経験として実感している。「好きでなくても読書は習慣化し得る」と。

自分が読書に向かうのはある種の義務感に駆り立てられているからだ。その義務感というのは「大学生なんだから読書くらいしろ」「成功している人は本を沢山読んでいる」といった無視しようと思えば即座に無視できる暗黙の圧力に近い。

ただ、さらに突き詰めて考えると、自分は「将来成功したいから本を読む」とか「誇れる大学生像」といった虚栄心から読書に駆り立てられている側面は実はほとんどない。

 

ほんとうは、読書をせざるを得ない環境にあるからだ。義務感に追われて読書をするというより、状況が自分を本に向かわせた。読書は一人でするものだ。一人でいる時間があまりにも長く手持無沙汰な状況が、本を読ませる。主体性がないのである。受動的な読書。

けれども、最近やっと読書それ自体に楽しさを見出せるようになってきた気がする。美しい文章に出会う喜びを知った。そう考えると「好きでもないのに習慣化している」状況は一過性のもので、継続して習慣化したものは結局、好きになるし、好きになれるものなのだろうなとも感じる。

 

いずれにせよ、読書が個人的な行為であることには変わりないし、僕が一貫して言えるのは、「読書が趣味」という人とは、「氣」が合うといつも感じるということだ。そういう人は、ひとりの時間を噛みしめることを身をもって知っている。